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とっぴもない仮説と驚くべき可能性: 塹壕からの眺め
失われた文明
これと同じ根本的理由が、1995年に出版された私の次の著作 『神々の指紋』(翔泳社) の核心にも存在する。この本における私の目的は、失われた文明の存在を証明する包括的論拠を示すことだった。それは有史以前の地球に広がっていた世界的大文明であったが、およそ12,500年前にあたる最後の氷河期の終わりにすべてが壊滅し、その遺物はほとんど残らなかった。
今日まで『神々の指紋』に対して正統派の学者とその支持者たちが示した反応に、私は驚いている。ある人々は、不敬な行為で侮辱された敬虔なカトリック教徒みたいに、激しい恐怖をもって反応した。私をからかう者もいた − あたかも、そのような考えを思いつけるとは、私は変人に違いないかのようだった。また、ある人々は『神々の指紋』 がどれほどの人気を博しているかに着目し(英国、イタリアおよび日本でNo.1のベストセラーとなり、
総売上は300万部を突破した)、私が財を成すために何とかして大衆をだましたのだと結論を下した。
私はそのようなことをしたのではないと心から望みたい。少し前に書いたように、私はプロの作家以外の何者かであると主張したことは一度もない。数年に及ぶ借金と金融的博打で経済的災難を被った後に、今や私の著作が私に財をもたらしていると言えることが誇らしい。これは私に独立と行動の自由を与え、適切な実地調査への投資を可能にする。私の主張が100パーセント正しくとも、あるいは100パーセント間違っているとしても、著述が私を経済的に豊かにしたのは、人々が私の本を読みたがっており、彼らは概ねそれに「金額に見合う価値」を見いだしていると感じているに違いないからと言える。大衆が私の著作を買うとき、彼らは私に資金を提供しているということは、私の「研究」はそもそも何であるのかを私に伝えてもいる。言いかえれば、それは研究なのである。それは、私が失われた文明のためにできるかぎり最良の論拠をあげ、そのような文明がかつて存在しなかったと主張する歴史家や考古学者その他の「権威」と懸命に戦うことであり、また、人類の過去のどこか深層に大きな謎が隠されているかもしれないという、私たちの多くが分かち合うこの直感を擁護することである。
私がしていることは、法廷で依頼人を弁護する弁護士の仕事に匹敵するかもしれない。私の「依頼人」は失われた文明であり、この文明が本当に存在したことを陪審員(大衆)に納得させるのは私の責任である。「検察当局」(正統派の学者たち)は、当然できるだけ有力な反対の論拠をあげようとするから、私は等しく有力な証拠をあげなければならないし、また必要なら、等しく容赦ない応戦をせざるをえない。
したがって、私が示す証拠は選択的であると多くの批評家が指摘するとき、それは確かに真実である。もちろん、私は選択的に証拠をあげている!私の依頼人を不利な立場に置くのは私の仕事ではないのだから!
別の批判として、私が弁護のために風刺を用いるとも言わている。もちろん、私はそうする − あてこすりでも何でも、それで弁護がうまくゆくのなら。
私はこの点で「ゲームのルール」には関心がない。これはゲームではないし、ルールも存在しないのだ。20世紀には、人類の過去に忘れられた失われた文明など存在しないという、圧倒的な学術的コンセンサスが出現し、これはマスメディアと教育制度のすべてのレベルで支持されていた。この世間一般の同意は非常に強力に補強されていたので、このテーマに関する真剣な研究は50年以上行われていないし、西洋世界に「失われた文明」研究の教員を抱える学術機関は現在ひとつとして存在しない!
したがって、1990年代、我が友人であり同志でもある作家たち、ロバート・ボーヴァルとジョン・アンソニー・ウエストと肩を並べて立ちあがり、正統派の歴史家(中でも特にエジプト学者たち)にとって非常に都合の悪い事態を巻き起こしたことを、私は誇りにしている。世界中の何百万もの人々が、今や過去の「公式」イメージについて重大な疑問を抱いている。かつては無関心だった非常に大勢の人々が、今やこの疑問、失われた文明が存在したかもしれないというワクワクするような驚くべき可能性に対して、恩恵を施す準備ができていることを誇りに思う。また、私たちを好んで無視するばかりであった正統派の考え方の人たちが、巻き返しを強いられていることを誇らしく思う。
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