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とっぴもない仮説と驚くべき可能性: 塹壕からの眺め
考古学的夢想家?
もちろん、私は、有史以前のより広範な謎に、この同じ疑問が当てはまると信じる。私たちが「石器時代」の先人たちを「原始人」あるいは「野蛮人」として理解し続けなければならないことは必然なわけではない。彼らの精神的、形而上学的な思考がいかなる意味でも私達より「発達していなかった」と考えるべき、どんな根拠も存在しない。有力な思索家や霊感を受けた創造的な芸術家が、その時代に仕事をしていたことを実証するためには、人はただ、世界中に残された洞穴芸術の、この世のものとも思えない強烈な美に言及する必要があるだけである。
1995年の『神々の指紋』出版で、偉大なる失われた文明についてのアイデアを一般流通の世界へ再び解き放った時、この本はいたるところで学者たちにより非難された。しかしながら、それ以降の数年、私は学会にこのアイデアに対する(少なくとも)ひとつのリアクションを見た。全面的な敵意の調子がけして廃れない一方で、今日の主流を成す学者のますます多くが、何らかの意味で失われた文明仮説に対して心を開いているという事実がある。最近の例では、充分に読むに値するものとして、リチャード・ラジリーの『石器時代文明の驚異(河出書房)』(原書は1998年、ロンドンのセンチュリーから『石器時代の失われた文明
』のタイトルで出版)がある。この書は、旧石器時代人に対して私たちが抱いている、ほとんどすべての基本的姿勢の完全な再考を呼びかけた。ラジリーは、私たちの共著で「エジプトに砂の城」を築いたと私とロバートの・ボーヴァルを非難するが、恐らく、彼自身のより冷静なアプローチは、私たちが長い間主張してきた要旨(すなわち、近代人は自らの過去を覆う長い記憶を広大な空白で埋め、忘却してしまった生き物である)を立証する証拠を提示し、これには多くの人が心動かされずにはいられない。現在も残る最も古い文字による記録は、過去を遡ること5千年未満にすぎない。これより以前の時代に当時の人々が何を考えていたのか、私たちは何も知らず、単に推測することができるだけである。
少なくとも最初の四万年(恐らく、それよりもはるかに長いだろうが)に及ぶ、私たち人類の存在の記憶が危うくなりかけている。必要なのは、社会において驚くべき可能性を調査しようとする意欲的ムードである − たとえそれが、ひょっとしたらそこに何かがあるかもしれないという期待だけであったとしても。私たちには種としてのとてつもない才覚があり、私たちはそうするに値する!道の途上でちょっと誤りを犯し、時には結果的に愚かに見えたとしても、それがいったい何であろうか。説明不可能な過去の謎に対するどんな知的関心も「ミステリー・フィーバー」として誹謗し、かつ支配的な歴史のパラダイムに対するどんな反対意見も「考古学的夢想家」の研究に違いないと、私たちを納得させようとする知識人の、ほとんど病気のような熱意に関して、真剣に疑問を抱くべき時が来たと私は信じたい。
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